第3章 炭鉱閉山後の取り組み

 1987(昭和62)年5月19日付の朝日新聞に「三井砂川鉱閉山通告で町ごと沈没の瀬戸際迎える」というタイトルで上砂川町に関する記事が掲載された。記事によると、町人口のうち70%が直接、あるいは間接的に炭鉱に依存しており、町の予算においては、自主財源の66%が鉱産税をはじめとした炭鉱関連の税収である。さらに、町面積のうち、道有林など公有地をのぞく民有地の95%を三井所有地が占めている。炭鉱住宅街は世帯数の40%を占め、そこでは電気や水道施設さえ三井に依存している、と記されている。記事ではさらに経済面についても触れており、町内の運送事業所の売上高に占める炭鉱関係分は90%近く、商店の売り上げは97%にも及ぶ、とされている。

 このように、上砂川町は炭鉱なくしては成り立たないといっても過言ではないほど炭鉱に依存しており、炭鉱の閉山は町の存続を危うくする一大事であった。

 

1、閉山後の進行策
   三井砂川炭鉱の閉山後、上砂川町では閉山後の緊急対策として、それまで炭鉱に依存してきたライフライン、住宅、医療機関などの移管をはじめさまざまな事業が進められた(図10)。なかでも、炭鉱に変わる産業を創出するために企業誘致に積極的に取り組み、既存の鶉地区に加え、1989(昭和63)年には駒が台地区、翌年には中町地区において工業用地が造成された。1998(平成10)年には、本町地区の一部で工業用地が造成された。

 しかしながら、谷沿いに町が形成されているために平地が少なく、4つの工業団地を合わせても工場用地は17.1ヘクタールに過ぎない(図11)。さらに、進出企業の多くは経営基盤が弱く、進出の数年後には倒産などによって撤退するケースが多いという問題を抱えており、上砂川町の工業は未だ不安定な状況にある(図12)。

 

2、地下無重力実験センターの開業と閉鎖
 

 

 1991(平成3)年、旧三井砂川炭鉱の中央立坑を使用した地下無重力実験施設が開業した(写真3)。この施設は、長さ710mにのぼる旧中央立坑を使用して、カプセルを落下させることによって10秒間の微少重力状態を作り出すという施設である。旧中央立坑という上砂川のシンボルであった施設を使用したことと、地上施設では世界最長の時間にわたって微少重力環境を作り出す施設であったことから、上砂川町の新しいシンボルとして大きな期待がかけられるようになった。町の境界を示すカントリーサインや下水道のマンホールのふたには無重力実験センターで使われているカプセルが描かれた。また、地下無重力実験センターの向かいには、三井砂川炭鉱閉山後の対策の一環として、無重力科学館とコンベンションホールが建設された。1994(平成6)年に完成した無重力科学館は「無重力」をテーマにした専門科学館であり、シュミレーションシアターには実際に1秒間の微少重力空間を発生させることのできる設備が備えられている。一方、1993(平成5)年に完成したコンベンションホールは無重力科学館に接続されており、会議や研修を行う場所として建設された。

 上砂川町の新たな街づくりの柱として期待された地下無重力実験センターであったが、2001(平成13)年に産炭地域臨時措置法が失効し、さらには経済産業省が「実験内容が産業の創出に結びつく応用型の研究成果が少なく、民間利用の利用も期待できない(上砂川町、2003)」として、2003(平成15)年3月での廃止を決定した。閉鎖後、立坑櫓を中心とした実験施設は上砂川町に無償で譲渡され、長い間にわたって上砂川町のシンボルとして親しまれた旧中央立坑は今後も残されることになった。


3、圧縮空気貯蔵ガスタービン発電システム実証プラント
 

 

 三井砂川炭鉱の施設跡を利用したもうひとつのプロジェクトが旧坑道を使用した「圧縮空気貯蔵ガスタービン発電システム実証プラント」という実験施設である。このシステムは夜間や休日の過剰電力を利用して圧縮空気を作り、地下の岩盤内に設置された貯蔵施設に貯蔵。電力を多く使用するピーク時に取り出し、燃料とともに燃焼させてガスタービン発電に利用しようとする一種の火力発電である(上砂川町、1999)。通商産業省(現・経済産業省)は、旧三井砂川炭鉱の坑道を使用して2000kwの出力規模を持つ施設を建設した。しかしながら、2000kw程度の発電規模では採算が合わないとして、2001(平成13)年に実験を終えて閉鎖された。