第5章 先進地事例−北海道赤平市

 北海道のほぼ中央部に位置する赤平市は、上砂川町と同じように石炭産業によって繁栄した都市である。最盛期の昭和29年には5万6千人を超える人々が生活していたが、中小炭鉱の相次ぐ閉山や住友赤平炭鉱など大手炭鉱の合理化、規模縮小などに伴って人口が減少し、平成2年の国勢調査では2万人を割り込んでいる。赤平市では、早くから石炭産業に代わる基幹産業の育成や、炭鉱施設など産業遺産の保全などに積極的に取り組んでいる。

 

1、赤平市の工業
 

 

 赤平市では、1960年代後半から相次いだ市内の炭鉱閉山による離職者の雇用確保が急務となり、それ以来、積極的に企業の誘致活動が取り組まれるようになった。赤平市の工業団地のうち、豊里、茂尻の工業団地はいずれも炭鉱施設跡を利用したものであるのに対し、赤平工業団地は、1972(昭和47)年に産炭地域振興財団(現:地域公団)によって造成された団地である。積極的な誘致活動によって、分譲開始から14年後の1991(平成3)年にすべての土地が分譲された。また、赤平工業団地が完売したこともあり、1996(平成8)年には赤平第二工業団地が分譲を開始している。2つの団地は市の西部の国道38号線沿いにあり、道央自動車道滝川インターチェンジまでおよそ4qの位置にある。現在、赤平市では図23の7社をはじめとした43社の企業が操業している。市内の製造業に勤務している従業員は1776人にのぼり、出荷額は300億円を超えている。空知管内では、岩見沢市に次ぐ第2位の工業出荷額を誇り、工業都市への転換は成功したといえよう。

 

2、産業遺産の保全と活用
 

 

 工業化の一方で、赤平市では積極的に炭鉱の歴史を保存する事業にも取り組んできた。1989(平成元)年、「炭鉱の歩みを保存・継承する懇話会」が設けられ、すでに閉山した炭鉱をはじめ、当時は操業中であった住友赤平炭鉱の動きをみながら、資料の収集や保存について検討していた。一方で「赤平百年史編さん委員会」も発足し、可能な限りの資料収集や聞き取り調査を開始した。さらに、1994(平成6)年に住友赤平炭鉱が閉山すると、住友赤平炭鉱の関係者を主体とする「炭鉱資料収集保存会」が設置され、住友赤平炭鉱の関係資料、機械、器具など約5000点を収集した。

 1997(平成9)年、堀達也北海道知事(当時)が「北の世界遺産」構想を打ち出し、1999(平成11)年に「北の世界遺産推進方策検討チーム」によって提出された報告書によって炭鉱跡などの遺跡を、まず「北海道遺産」として保全すべきであると提起された。報告書の提出に先立って、道内14支庁ごとに「北海道遺産の」調査検討に入り、空知支庁では炭鉱関連施設や歴史的遺物を対象とすることになり「そらち・炭鉱の記憶推進事業」の活動が開始された。これに合わせて、赤平市では平成11年5月に「炭鉱の歴史を保存・継承する市民会議」が設立された。さらに、住友赤平炭鉱立坑やぐら(写真23)が日本産業考古学会の「産業遺産」に認定されるなど、産業遺産の保存と活用に向けた動きがよりいっそう活発化した。

 行政だけでなく、市民も産業遺産の保存・活用に向けて積極的に活動し、住友赤平鉱立坑のライトアップや、通称山田御殿の活用など、全市を挙げて産業遺産活用の取り組みが積極的に行われた。その功績が実り、2003(平成15年)には「第6回国際鉱山ヒストリー会議」が赤平市で開催されることとなった。国際会議には146人の研究者が参加したほか、一般市民向けのフォーラムや映画上映会などの各種イベントには多くの市民が参加した。また、国際会議の開催に合わせて住友赤平炭鉱立坑やぐらのライトアップが行われたほか、赤平市中心部には実際に赤平市の炭鉱で使用されていた機械などが屋外に展示された(写真24)。

 赤平市では、国際会議の開催を契機にさらなる地方活性化の指針を作成するなど、産業遺産を活用したまちづくりが積極的に行われている。