「一町一山」で繁栄した上砂川町の歴史は三井砂川炭鉱と深い関わりを持っており、三井砂川炭鉱の存在が上砂川町の形成に強い影響を与えている。上砂川の開墾が始まってから、三井砂川炭鉱が閉山した1987(昭和62)年までの間について、三井砂川炭鉱を中心に上砂川町の歴史をまとめた。
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1、上砂川の発祥と石炭の発見 |
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上砂川町は、1899(明治32)年に福井県鶉村(現・福井市)から移住してきた山内甚之助によって開拓されたのがはじまりである。パンケウタシナイの沢の開拓を決意した甚之助は、20数名の連名によって貸下げ申請を行って受理された。しかしながら、甚之助以外は名前を貸しただけで移住の意思はなく、開拓の準備は甚之助1人で行われた。何としても開拓を成功させようとした甚之助は、入植者の条件を厳しく設定する反面、入植希望者の大半が貧しいという実情に即した土地販売の方法をとり、2年4ヶ月の間に21戸の自作農と4戸の小作農を集めた。やがて、パンケウタシナイの沢は、甚之助の故郷である「鶉」を冠して「鶉農場」と命名された。
山内甚之助がパンケウタシナイの沢に入植する前の1886(明治19)年から1889(明治22)年にかけて、上砂川地区に石炭が埋蔵されていることが、オタウシュナイ炭田(現在の歌志内市、上砂川町)一帯を調査した道庁技師の山内徳三郎や坂市太郎によって発見されている。その後、1896(明治29)年には、現在の東町地区の奥に上砂川地区最初の炭鉱となる「西山坑」が開坑した。この炭鉱は、北海道炭鑛鉄道(のちの北海道炭鑛汽船)によって開発され、将来的には上砂川地区の開発も行う予定だったが、断層やガスの発生が多いことから西山坑での事業は縮小され、1924(大正13)年には三井鉱山に買収されて三井砂川炭鉱の一部になっている。
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2、三井砂川炭鉱の開坑と隆盛 |
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三井鉱山合名会社(1909年に三井合名会社に商号変更)が本格的に上砂川地区の調査を開始したのは1898(明治31)年からで、北海道庁の技師から三井鉱山に転じた西山正吾らによって上砂川地区の本格的な炭田調査が行われ、明治末期までに上砂川地区の鉱区の大部分を入手している。1911(明治44)年に新山開発に備えて三井鉱山株式会社が設立され、1914(大正3)年に三井砂川炭鉱が開坑した。しかしながら、しばらくは調査を兼ねた採掘が行われ、本格的な採掘が始められたのは3年後の1917(大正6)年であった。このことからもわかるように、三井鉱山にとって初めてのことである新山開発は慎重に行われたのである。
1919(大正8)年には、石炭を運搬するための鉄道(砂川−上砂川間)が敷設された。この鉄道は、三井鉱山が鉄道用地を買収して鉄道院に寄付し、さらに敷設工事の経費のすべてを三井鉱山が負担するというものであった。鉄道の開通によって、石炭輸送が容易になったのと、第一次世界大戦の影響による工業のめざましい発達によって石炭の生産が増加し、それに伴って炭鉱の従業員も大幅に増加した。もともと石炭運搬のみに使用されていた鉄道が、地域住民の請願により旅客を取り扱うようになったのは1926(大正15)年で、鉄道の開通と旅客の取り扱いはその後の上砂川市街の発展に大きく寄与した。上砂川の表玄関となった上砂川駅は着実に業績を伸ばし、1933(昭和8)年度の上砂川駅の運賃収入は全道4位となっている(図6)。上砂川は石炭によってめざましく発展し、その一方で農業は衰退の一途をたどった。
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3、三井鉱山主導によるまちづくり |
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三井鉱山は従業員の福利厚生に配慮し、従業員の住宅(写真1)をはじめ、市街地の形成や学校、スポーツ施設、文化施設などの建設も行い、上砂川の発展に大きな影響を与えた。たとえば、1917(大正6)年に策定された区画割計画によって市街地の整備が計画され、道路の建設と土地の貸付が行われた。このとき建設された道路の位置は、現在でもほとんど変わっておらず、現在の上砂川市街の基礎・原形がこのときに形成されたといえる。また、本町地区には三井の負担によって小学校が建設されている。さらに、三井鉱山は会社ぐるみでスポーツ振興を積極的に推進し、上砂川でもスポーツがいち早く取り入れられ、陸上競技場や野球場、シャンツェなどさまざまなスポーツ施設が建設された。すでに、1918(大正7)年ころには野球、テニス、弓道などが行われていた。1936(昭和11)年に開催されたベルリンオリンピックでは、田島直人選手(三井砂川陸上部所属)が三段跳びで金メダルを獲得している。
また、1928(昭和3)年に建設された互楽館(写真2)という娯楽施設は、1280席を擁する劇場と、ビリヤード場や日本座敷、洋式会議室を備え、当時“日本一”とよばれるほどの施設だった。このように、戦前の上砂川地区は全道的にみても非常に恵まれた環境のもとで順調に発展した。
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4、第二次世界大戦と戦後復興 |
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1937(昭和12)年に勃発した日中戦争によって再び戦時体制となった日本では、国内のあらゆる産業が軍需に支えられて世界恐慌以来の不況脱出の道を歩んでいた。軍需産業のめざましい発展に伴い、石炭産業の需要も激増し、1940(昭和15)年には全国で5632tもの出炭を記録した。三井砂川炭鉱においてもおよそ160万トンの生産を記録した。しかしながら、熟練した鉱員の相次ぐ招集による未経験者の増加や坑内事情の悪化、さらに生活物資不足の悩みが表面化して、鉱員の作業意欲や能率に影響したことなどにより、出炭量はこの年をピークに伸び悩んだ。戦争は、次第に日本に不利な情勢になり、政府は1945(昭和20)年8月15日にポツダム宣言を受諾し、事実上降伏した。終戦後、日本の産業の復興、交通運輸や発電などの復旧にとって石炭は欠かすことの出来ないものとなり、三井砂川炭鉱でも戦時中にも増して増産運動が叫ばれた。三井砂川炭鉱は国の傾斜生産方式という政策のもとで復旧に努め、坑内外の整備と集約による効率化と機械による近代化によって着実に生産量が増加した。
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5、上砂川町の誕生 |
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戦後復興の一方で、河川によって砂川町(現・砂川市)と歌志内町(現・歌志内市)に分断されていた上砂川地区の分離独立の運動が起こるようになった。なかでも、炭鉱と直接的な関わりのない市街地区や鶉地区は、本町地区などと違って三井からの支援を受けられず、一方で砂川町からも配慮されることなく、地域住民の不満は高まる一方だった。また、上砂川地区から砂川町役場まで行くには半日かかり、歌志内町に属している西山地区から歌志内町役場に行くには一日がかりだったことも独立運動が発生した大きなきっかけとなっている。非常に不便な状況のもとで生活していた上砂川住民の不満は増大し、着実に分離独立の声が上がっていった。分離独立について最初に動きを開始したのは、上砂川出身の砂川町と歌志内町の町議会議員だった。分町に関する建議書をそれぞれの町に提出し、広く住民の協力を得て運動しようとの意図のもとに「上砂川町設立同士議員一同」の名で、1947(昭和22)年9月に声明文を発表してアピールしたのである。翌月には「上砂川町設立期成会」が結成され、いよいよ本格的に分町運動が開始された。砂川町では分町反対の運動も起こったが、根強い分町運動の結果、1949(昭和24)年1月1日に「上砂川町」が誕生した。町名には「上砂川」が用いられた。「上砂川」という地名は、三井鉱山が1919(大正8)年に敷設した鉄道の駅を建設する際、パンケウタシナイ川の上流にあることから「上砂川」と名づけられたのがはじまりである。分町後間もなく、東奈井江地区を奈井江町に編入し、1952(昭和27)年1月1日には現在の上砂川町の姿となった。分町時の人口は3万人を超え、1kuあたりの人口密度は全道一の高さであった。
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6、石炭産業の斜陽化 |
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順調に増加していた出炭量は、1960(昭和35)年に100万tを超え、その後も安定して100万トン台を維持していった。その一方で、効率化も確実に進行し、従業員の整理による減員が行われて人口は急激に減少し、1963(昭和38)年には人口2万5千人を下回った(図4)。さらに、急速に進んだエネルギー革命によって、能率の悪い中小炭鉱は次々と閉山し、残った大手炭鉱も一層の効率化を求められ、産炭地域の人口減少に拍車がかかった。上砂川町においても、三井砂川炭鉱の合理化によって急速に人口が減少した。この状況を危惧した上砂川町では、奥沢地区にスキー場と温泉施設をオープンさせたのをはじめ、閉校した中学校跡地を使って企業誘致を行なうなどして産業構造の転換を図ろうとしたものの、人口の減少に歯止めはかからず、1968(昭和43)年には人口2万人を下回り、1985(昭和60)年には1万人を切っている。また、炭鉱の経営の効率化を進めるなかで福利厚生に関する施設の建設を抑制するようになり、炭鉱に代わって町が集会施設などを建設するようになった。
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7、三井砂川炭鉱の終焉 |
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1985(昭和60)年には、国内炭と輸入炭との価格差が円高によってさらに増大し、原料炭1トンあたりの価格差が1万円を超えるようになった(図7)。すでに慢性的な赤字経営に陥っていた三井砂川炭鉱は生産の大幅縮小を余儀なくされた。さらに、1986(昭和61)年11月28日には、国内炭の生産規模縮小を容認した石炭鉱業審議会の答申(図8)が出されると、かねてから閉山が噂されていた三井砂川炭鉱は緊張に包まれた。石炭産業を唯一の基幹産業とする上砂川町にとって、炭鉱の閉山は町の存続問題となることから、町を挙げての炭鉱存続運動を行ったものの、昭和62年3月31日、三井石炭鉱業によって三井砂川炭鉱を閉山する方針であることが発表された。5月に6月18日での閉山が正式に提案されると、長谷山英夫町長(当時)は町議会で閉山反対を表明し、上砂川町では閉山反対の運動が町を挙げて展開された。しかしながら、閉山は避けられない情勢となり、労使交渉の結果、1987(昭和62)年7月14日に三井砂川炭鉱は73年の歴史に幕を閉じることとなった。閉山に際して、労働組合と町が一体となって、さまざまな要望・要請を行い、三井石炭鉱業と上砂川町の間で、閉山に伴う地域振興に関する確認が交わされた(図9)。
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註1:写真1・2はhttp://www.donetjp.com/kamisunagawa/の管理者様より許可を頂き、借用させて頂いているものです |