第2回 定山渓鉄道の開通



1、定山渓鉄道開通までの曲折

定山渓鉄道は、定山渓の温泉に向かう観光客、豊羽鉱山で生産される鉱石、さらには定山渓付近から切り出された木材の輸送を目的として、1918(大正7)年10月に開通した。
当初は、苗穂駅を起点として、豊平川の左岸に沿って石山まで向かい、豊平川を横断して定山渓まで向かうルートが計画されていたが、1913(大正2)年8月に洪水が発生し、豊平川は複数箇所にわたって決壊し、北海道庁による護岸工事のため線路を敷設する予定であった場所を使用することができなくなった。また、この洪水によって川幅が広がり、豊平川の横断に予想以上の経費を要することが発覚し、ルートの大幅変更を余儀なくされた。


定山渓鉄道敷設計画の変遷

そこで、豊平川を横断しないで済むよう、大正5年に白石から定山渓に向かうルートが計画された。用地取得が難航したことなどによりさらにルートが修正され、最初の計画が企画されてから4年後の1917(大正6)年にようやく工事が開始された。
鉄路敷設の計画が進められる一方で、資本金の募集も始められた。そのなかで、石山馬鉄を経営していた助川貞次郎が多額の資金を出資する条件として、路線を大通りから八垂別(現:川沿)を経由して石山へ至るように敷設することを強く主張した。発起人側は出資の申し出を断ったのだが、もしこの条件を受け入れていれば澄川に定山渓鉄道が敷設されることはなく、現在の澄川の繁栄はなかったことは想像に難くない。

 

 

2、定山渓鉄道の開通と北茨木駅の開設

かくして、定山渓鉄道は大変な困難を乗り越えた末、1917(大正7)年10月に開通した。開通当時、住民が非常に少なかった澄川地区に駅は設けられず、澄川の人々は行き交う列車を眺めるだけだった。1924(大正13)年に小樽新聞社が募集した北海道三景の1つに定山渓温泉が選ばれると、定山渓温泉の利用客は増加し、木材の切り出しも増え、さらには沿線で生産された農産物や沿線住民の生活物資の運搬などにより定山渓鉄道の需要は大幅に増加し、輸送力の増強が急務となった。そこで、路線全線を電化する計画が持ち上がり、北海水力電気(株)などの出資によって1929(昭和4)年に全線の電化工事を行った。
電化完成と、同時に行ったレール交換の工事によって輸送力は大幅に増加し、工事前は1日4往復だった列車が、工事完了後は16往復となり、所要時間も40分短縮されたため、定山渓鉄道の利用者はますます増加した。


1929(昭和4)年ころの定鉄電車


1969(昭和44)年ころの澄川駅

1933(昭和8)年、澄川地区で大農場を経営していた茨木与八郎より用地の無償提供を受け、澄川地区に停留場を設けることになった。駅名は、茨木氏の名を冠して「北茨木停留所」と名付けられた。1944(昭和19)年には地名が「精進川」から「澄川」に改められたが、1957(昭和32)年まで「北茨木」の名は改称されることなく、茨木氏の功績は長い間にわたって讃えられた。
開設当初は停留場を利用する人は少なかったが、1934(昭和9)年に平岸山東側丘の上に市立札幌病院附属静療院が開設されると、入院患者や看護婦、見舞い客などが停留場を利用するようになった。

 

参考資料

・澄川開基百年記念事業実行委員会編 『郷土史すみかわ』 1981.8
・田端 宏、桑原真人、船津 功、関口 明 『北海道の歴史』 山川出版社、2000.9
・株式会社じょうてつホームページ [http://www.jotetsu.co.jp/]