第1回 本願寺道路の開削



1、本願寺道路開削の背景

日本では、1792(寛政4)年、ロシア使節、ラスクマンが日本との通商を求めて根室に来航したのを皮切りに、ロシアの南下にともなって蝦夷地の開発が急務となりつつあった。明治維新後の1869()年には東京に開拓使が設置され、北海道開拓が推進されることとなった。その後、開拓使本庁の設置先として札幌が選定されたため、当時の北海道の中心であった函館から札幌までの道路の開削が急務となったのである。しかしながら、先の戦争によって多大な資金を使った政府には道路を開削するほど財政的余裕がなかったこともあり、東本願寺に開削を打診した。当時、西本願寺は京都・加茂川への架橋などで新政府のために多大な資金を費やしていたこともあり、東本願寺ではこの要請を受け、開削と布教を掲げて、形式上自ら開削を願い出たのである。

道路開削にあたっては、弱冠19歳の法嗣現如が指揮を執り、松井逝水らを調査に派遣した。一行は松浦武四郎の意見を取り入れて調査し、函館から森に至り、内浦湾を船で進み、有珠から札幌までの道路を開削することになったのである。現如上人は100名余りの僧侶を引き連れて京都を出発し、渡島軍川(現:七飯町)から砂原(現:砂原町)までの間と尾去別(現:伊達市)から札幌までの間をわずか1年4ヶ月で開削した。このうち、1871(明治4)年に開通した有珠から中山峠を経て札幌までの道を本願寺道路、あるいは有珠道路と呼んだ。


南区澄川と豊平区平岸の境界にある「本願寺道路終点の碑」


2、開通から現在まで

当時、函館から札幌までの道路建設は開拓使の重要課題の1つであり、開削された当初は大変重宝された。本願寺道路開通の翌年にはこの道を利用する人の便宜を図るために簾舞に「通行屋」を開設した。しかしながら、本願寺道路開通からわずか2年後の1973(明治6)年に、苫小牧や千歳を経由する札幌本道(現在の国道36号線の全身)が開通したことにより、本願寺道路の利用者は激減し、沿線に居住していた住民もいなかったことから、澄川地区周辺の道路はすぐに笹や草木に埋もれてしまい、しばらくの間は本願寺道路が利用される機会はなかった。

のちに澄川の開拓が始まり、入植者が増加すると本願寺道路は北から再び道路としての使命を担うようになり、途中の南区石山からは230号線の基礎となり、幾度かの道路改修を経て現在も北海道の大動脈として活用されている。澄川地区においても、南北を貫き、真駒内を経て石山へ向かう「平岸街道」として、今日の澄川の発展に重要な役割を果たしている。


現在の本願寺道路終点の様子

 

註 東本願寺が道路開削を行った背景にはもう一説がある。

徳川家と親密な間柄にあった東本願寺は、明治維新によって微妙な立場に立たされるようになった。政府は神社神道の普及に力を注ぎ、1868(明治元)年に「神仏分離令」を発令すると、廃仏毀釈の運動は全国的に広がり、仏教界は大打撃を受け、東本願寺は存亡の危機に立たされた。この情勢を察知した東本願寺門跡厳如上人光勝は維新政府に対して謀反の心がないことを示すためと将来への布石も兼ねて、「新道開削・移民奨励・教化普及」の3項目を掲げて、開拓使が最も困難視していた札幌への道路開削を出願した、という説である。本願寺道路は東本願寺の事業として行われたため公文書として現存している資料が少なく、詳細については今でも明らかになっていない。現時点では、本文にて記載している説が有力視されている。

 

参考資料

・澄川開基百年記念事業実行委員会編 『郷土史すみかわ』 1981.8
・札幌市南区役所総務部総務課編『南区のあゆみ』 1982.4
・田端 宏、桑原真人、船津 功、関口 明 『北海道の歴史』 山川出版社、2000.9
・五味文彦、高埜利彦、鳥海 靖編 『詳説日本史研究』 山川出版社、1998.9