日本では、1792(寛政4)年、ロシア使節、ラスクマンが日本との通商を求めて根室に来航したのを皮切りに、ロシアの南下にともなって蝦夷地の開発が急務となりつつあった。明治維新後の1869()年には東京に開拓使が設置され、北海道開拓が推進されることとなった。その後、開拓使本庁の設置先として札幌が選定されたため、当時の北海道の中心であった函館から札幌までの道路の開削が急務となったのである。しかしながら、先の戦争によって多大な資金を使った政府には道路を開削するほど財政的余裕がなかったこともあり、東本願寺に開削を打診した。当時、西本願寺は京都・加茂川への架橋などで新政府のために多大な資金を費やしていたこともあり、東本願寺ではこの要請を受け、開削と布教を掲げて、形式上自ら開削を願い出たのである。
道路開削にあたっては、弱冠19歳の法嗣現如が指揮を執り、松井逝水らを調査に派遣した。一行は松浦武四郎の意見を取り入れて調査し、函館から森に至り、内浦湾を船で進み、有珠から札幌までの道路を開削することになったのである。現如上人は100名余りの僧侶を引き連れて京都を出発し、渡島軍川(現:七飯町)から砂原(現:砂原町)までの間と尾去別(現:伊達市)から札幌までの間をわずか1年4ヶ月で開削した。このうち、1871(明治4)年に開通した有珠から中山峠を経て札幌までの道を本願寺道路、あるいは有珠道路と呼んだ。